運動指導だけが、なぜ「あいまい」なのか

事故196件が問いかける、資格と科学的根拠の責任

2026年5月27日、消費者庁の消費者安全調査委員会、いわゆる消費者事故調は、パーソナルトレーニング中の事故に関する報告書を公表しました。

直近7年間で確認された事故は、少なくとも196件。報告書では、その背景のひとつとして、トレーナーの知識・技術・経験の不足が指摘されています。また、安全な指導に必要な基準を定めるべきだという提言も示されました。

この報告は、単なる事故件数の問題ではありません。

運動指導という仕事が、社会の中でどのような責任を負うべきなのかを、改めて問いかける内容です。

増え続ける事故が示す現実

報告書によれば、2019年から2025年にかけて、事故情報データバンクに登録されたパーソナルトレーニング関連の事故は196件にのぼります。2022年以降は毎年30件を超え、2025年には44件に達しています。

ケガの程度も軽視できません。

治療に1カ月以上を要する事故は全体の41%を占め、部位別では腰や股関節のケガが59件で最も多く、膝や足、肩や腕のケガも報告されています。

現在では、ダイエットや健康維持、体力向上を目的に、一般の消費者がパーソナルトレーニングを利用する機会が増えています。利用者の年齢、運動経験、体力、既往歴、生活習慣は一人ひとり異なります。

同じ運動であっても、ある人には適切な負荷となり、別の人には危険な負荷となる場合があります。

だからこそ、トレーナーには、利用者の状態を見極め、その人に合った種目、回数、強度、可動域、休息を選択する力が求められます。

報告書では、トレーナーを対象とした調査で「少し負荷をかけすぎたことがある」と答えた人が44%にのぼったことも示されています。また、利用者側の調査でも、指導を「無理だと感じたことがある」という回答が32%ありました。

事故の多くは、単なる不運ではありません。

知識、判断力、観察力、そしてコミュニケーションによって、防げた可能性のある事故でもあるのです。

他の仕事には「基準」がある

私たちの社会では、人の安全や健康に関わる仕事、専門的な技術を必要とする仕事の多くに、資格や免許が設けられています。

人や物を運ぶには運転免許が必要です。美容師は、免許がなければ法律上その業務を行うことができません。建物の配線を扱うには電気工事士の資格が必要であり、飲食店を営む場合には営業許可や食品衛生責任者の設置が求められます。

これらの制度に共通しているのは、知識や技術が不十分なまま人と関われば、誰かを危険にさらす可能性があるという考え方です。

一方で、人の体に直接ふれ、負荷をかけ、ときにケガと隣り合わせになる運動指導には、法律上、必ず取得しなければならない資格がありません。

極端にいえば、誰でも「今日からトレーナーです」と名乗ることができてしまいます。

これが、現在の日本における運動指導の現実です。

報告書でも、フィットネス関連の民間資格は国内に100以上ある一方で、安全な指導に最低限求められる知識・技術・経験の考え方が、業界全体で標準化されていないことが課題として挙げられています。

 

アメリカでは、基準が現場で機能している

アメリカにも、パーソナルトレーナーに対する政府の免許、いわゆるライセンスはありません。

しかし、アメリカの状況は日本とは大きく異なります。

アメリカでは、第三者機関であるNCCA(National Commission for Certifying Agencies/全米資格認定委員会)による認定が、業界の事実上の標準として機能しています。

NCCAは、資格認定プログラムが一定の水準を満たしているかを、独立した立場で審査する機関です。重要なのは、その基準が単なる理念ではなく、実際の現場で運用されているという点です。

こ大手ジムやヘルスクラブ、企業のウェルネスプログラムでは、採用条件としてNCCA認定資格の保有を求めるケースがあります。また、トレーナーが加入する賠償責任保険においても、NCCA認定資格を条件とする保険会社があります。

つまりアメリカでは、国家資格という形ではなくても、業界全体が「最低限ここまでは身につけているべき」という基準を共有し、雇用や保険の場面で実際に活用しているのです。

日本に必要なのは、国家資格そのものだけではないのかもしれません。

むしろ、業界を横断する共通基準と、それを当然のものとして扱う社会的な認識が求められているのではないでしょうか。

資格は、信頼と責任の土台になる

トレーナーにとって、信頼できる認定資格を取得することは、単なる肩書きを得ることではありません。

利用者にとって資格は、「この人になら自分の体を任せられる」と判断するための大切な材料です。トレーナーにとっては、体系的な学びを修め、第三者の基準に照らして一定の水準を満たしていることを示す証でもあります。

もちろん、資格を持っているだけで、すべての指導が安全になるわけではありません。しかし、資格を取得する過程で、解剖学、生理学、運動生理学、評価、プログラム設計、安全管理、リスク対応などを体系的に学ぶことは、プロとしての土台になります。

運動指導は、利用者の体に直接影響を与える仕事です。

トレーナーの一つの判断が、利用者の健康を守ることもあれば、反対に傷つけてしまうこともあります。

その重みを理解し、責任を引き受ける覚悟を持つこと。

資格取得は、その第一歩だといえます。

科学的根拠に基づく判断が、安全を支える

資格と並んで欠かせないのが、科学的根拠に基づいた知識です。

報告書では、利用者が多様化する中で、それぞれの状態に応じた適切な種目、回数、負荷が選ばれていないことが、事故の背景として分析されています。

この「適切に選ぶ」という判断は、感覚や経験だけで十分に行えるものではありません。解剖学、生理学、運動生理学、バイオメカニクスなどの基礎理論があってこそ、指導の根拠を持つことができます。

なぜこの動作が腰に負担をかけるのか。

なぜこの人には、この可動域を無理に広げてはいけないのか。

既往歴がある人に、どの種目を避けるべきなのか。

回復を促す負荷と、ケガにつながる負荷の境界はどこにあるのか。

こうした判断は、経験だけでは対応しきれません。

利用者の身体状況は一人ひとり異なり、マニュアルどおりに指導すれば安全とは限らないからです。

科学的根拠に基づいて「なぜ」を説明できることは、安全な指導の土台です。

同時に、利用者が違和感を覚えたとき、それを軽視せず、必要に応じて運動を中止したり、内容を変更したりする判断にもつながります。

運動指導を「あいまい」なままにしないために

今回の報告書が示したのは、「誰でもトレーナーを名乗れる時代」から、「責任を引き受けられる人がトレーナーであるべき時代」への転換です。

その責任を支えるものが、信頼できる資格であり、科学的根拠に裏づけられた知識と判断力です。

運動指導を、いつまでも「あいまい」なままにしないために。

トレーナーを志す人も、すでに現場に立っている人も、改めて「資格」と「科学的根拠」という二つの責任に向き合う必要があります。

それは、利用者の安全を守るためであり、トレーナーという仕事の信頼を高めるためでもあります。

そして何より、人の体と人生に関わるプロフェッショナルとして、社会から選ばれ続けるための確かな道なのです。

 

※本記事は、消費者庁 消費者安全調査委員会が2026年5月27日に公表した報告書、および公開情報をもとに作成したものです。